新着情報

2022.01.01
ホームページを開設しました(https://www.jihi.jp)

1 僧侶派遣・慈悲の会(曹洞宗)

◎法要内容等

〇通夜、葬儀(二日)(戒名・読経・法話・お膳料・お車代・心付け)―13万円

〇一日葬(戒名・読経・法話・お膳料・お車代・心付け)ー8万円

〇火葬式(直葬)(戒名・読経・お車代・心付け)――――5万円

〇一般法要等(読経・法話・お車代・心付け)――――――万円

◎派遣エリア

東京23区、千葉県、埼玉県、長野県(長野市・千曲市)

◎依頼先(お問い合わせ)

慈悲の会(曹洞宗) (携帯電話:090-1218-3785)(08:00~20:00)

          (固定電話・fax兼:047-433-9373

(メール:yamadera24@jcom.zaq.ne.jp

◎法要依頼書ダウンロード
法要希望者は、下記をダウンロードしてください(送付先も記載されています)。
PDFファイル( 法要依頼書)

2 自著販売

◎山寺邦道『死生観』パレード社

概要紹介:本書は、第一部妻の死、第二部得度、第三部死生観から構成されている。
第一部では亡き妻の悲嘆と無念さを著者が時の経過によって風化させずに心に焼き付ける想いから、亡妻の闘病生活を中心に記述したものでる。また第二部の得度は、日本仏教七宗派のうち僧侶になるのが最も厳しいとされる曹洞宗の禅僧を目指して、古希をはさみ著者が修行した経過等について論述し、更に第三部では、第一部と第二部を踏まえた上で死生観を様々な観点から参究したものである。
「この世に絶対かつ平等なものがたったひとつある。それは死である」ー愛妻を亡くし、僧界に入った老禅僧が死生観を参究する―
                                                       (2021年4月電子書籍化)

(1800円=定価1600円+消費税+送料)

◎山寺邦道編著『死への準備』パレード社

概要紹介:本書は、二部構成となっており、第一部は死への準備、第二部は僧侶の任務である。
僧侶の職務は端的にいって二つあると考える。それは悩み苦しんでいる人々の心を救済すること、もう一つは死者に引導を渡す等仏事を執り行うことである。前著『死生観』は、出版後多数の読者からの温かいご感想を頂いたが、それらのご所見等をも踏まえ、第一部では、死をめぐる主要問題について様々な観点から考察し、また第二部では、昨今の葬祭業務のほとんどすべてを取り仕切っている葬儀社といえども犯すことができない僧侶の大切な任務である戒名授与と葬儀・読経等について解説したものである。
「よく生きることは、よく死ぬことであり、よく死にたいと思うならよく生きることである」   (2022年10月電子書籍化)

1700円=定価1500円+消費税+送料)

◎山寺邦道編著『禅』パレード社

概要紹介:本書は、禅なかんずく坐禅の概要等を総括的に理解するためにまとめたものである。
本著は禅に関するある程度の基礎知識をお持ちの読者を対象にまとめたものであるが、仏教の専門用語や禅特有の言語に加えて人名等当用漢字にない読解困難な文字が文中に散見されているので難解な印象を持たれる読者が多いと思われる。したがって、少しでも読者が興味を持って理解していただけるように禅語の紙面を多く取るとともに禅に関する故事を本書の全面に散りばめてある。
読者が本書を通読され、広義の禅(坐禅)思想の概念の一端でも理解していただければ幸いである。
「禅は仏の心であり、坐禅は禅の象徴である」(2024年電子書籍化予定)

(1700円=定価1500円+消費税+送料)


◎依頼先(お問い合わせ)

慈悲の会(曹洞宗)(固定電話・Fax兼:047-433-9373

(メール:yamadera24@jcom.zaq.ne.jp


死生観
死への準備

3 揮(き) 毫(ごう)

◎掛軸等の揮毫請け合い(揮毫僧侶山寺邦道は高等書道師範)
掛軸・額・帖・巻子・扇子・短冊・色紙等の揮毫

◎サンプルの解説等(各画像を左クリックすると拡大する)
〇諸行無常(掛軸-上下部分省略)
 諸行無常偈といわれ涅槃経にある四句の偈である。これが空海のいろは歌と整合しているところが絶妙である。簡潔に表現すれば、万物は無常にして生じては滅し再生しては又滅していく。それが静まり止むことこそ安楽すなわち死である。日本の伝統的葬送の際、棺を四句の偈の「四本幡」で囲って送る由縁である。
〇合掌(掛軸-上下部分省略)
 合掌とは、両手をあわせて仏を拝む時の礼法である。インドの敬礼作法の一種が仏教に取り入れられた。南アジア一帯の仏教国では、挨拶の代わりに合掌して相手に礼を尽くす。仏と衆生が合体して成仏するという意味である。
手を合わせることは、左右相対したものが一つになり、信じることや調和を保つことの象徴でもある。
〇千曲川旅情の詩(巻子)
 本巻子は、万葉仮名で揮毫したものである。なお、現代文にすれば次のとおり。
 小諸なる小城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なすはこべは萌えず 若草もしくによしなし しろがねの衾の岡辺 日に溶けて淡雪流る  あたたかき光はあれど 野に満つる香も知らず 浅くのみ春は霞みて 麦の色はつかに青し 旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ  暮れ行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛 千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む    
            藤村落梅集から  邦山書
〇『摩訶般若波羅蜜多心経』(額)
 一般に最も親しまれている『般若心経』は正式には『摩訶般若波羅蜜多心経』といって、唐の玄奘三蔵法師(600~664)の訳とされている。『大般若経』から抄出されたと考えられているこの『般若心経』は、本文わずか262文字の中に仏教の教えのすべてが網羅されている。すなわち、『般若心経』に取り上げられている五蘊・六根・十二因縁・四諦・八正道などはすべて釈尊の教義の基本をなすもので、それを「空」として説くものである。したがって、『般若心経』を学ぶことは、仏教の基本をきちんと学ぶことになる。また、読誦経典としてだけでなく、写経の経典としても最も多く一般的に使われている。小生は三十代の頃から毎朝『般若心経』を読誦するのが日課となっていた。
僧侶になる前から毎朝たとえ数分ではあるが姿勢を正し読誦して人間として生きることに対する罪業消滅等を願ってきた。

◎依頼先(お問い合わせ)
慈悲の会(曹洞宗)(メール:yamadera24@jcom.zaq.ne.jp)



 
 
 
 









千曲川旅情の詩
摩訶般若波羅蜜多心経

4 坐禅指導

 日本全国の曹洞宗が認可した参禅道場、坐禅会を行っている寺院等は、多数存在する。
 関東一都三県(神奈川、千葉、埼玉)だけでも百か所以上あるが、ここでは大本山總持寺と大本山永平寺東京別院長谷寺の参禅会等に限定してその概要を紹介する。

◎大本山總持寺の坐禅会
 總持寺の参禅には、主に次の3コースがある。
〇月例参禅
 月例参禅は、毎月指定した日を自由参加の坐禅会として開催している。なお、自由参加の参禅は、予約なしで参加可能。先着100名で受付終了。初参加者は午後1時までに香積台受付に集合。午後1時受付開始で4時頃解散。服装(持参品)は、坐禅しやすい恰好(ジャージ等) 参加費は500円
〇暁天参禅
 暁天参禅は、毎月指定した日を自由参加の坐禅会として開催している。なお、自由参加の参禅は、予約なしで参加可能。先着100名で受付終了。開催時間等は、05:15~05:45受付時間厳守、6時止静、7時頃解散。服装(持参品)は、坐禅しやすい恰好(ジャージ等) 参加費は300円
〇一泊参禅『禅の一夜』
日程等
 新型コロナウイルス感染症流行のため2020.9月以降の日程は、未定。定員30名の予定。持参品は、洗面・入浴用具、タオル、白靴下、寝間着。参加費6000円(坐禅着レンタルの場合7000円)
スケジュール
第1日目(土)          
16:30 受付・着替え         
17:00 挨拶・坐禅指導       
17:30 止静(坐禅開始)         
18:10 抽解            
18:30 薬石(夕食)、飯台片付け  
19:30 夜話会                                  
20:00 明朝説明         
20:10 入浴             
21:00 開枕(就寝)         
第2日目(日)
03:40 振鈴(起床)
04:10 止静・抽解
     朝課(朝のお勤め)
06:30 小食(朝食)、飯台片付け
07:15 作務(掃除)
08:30 茶話会(祖録)
09:00 挨拶・解散
  *希望者は9時以降に坐禅一炷
  *終了後拝観(希望者のみ)
申し込み方法
 希望者は、住所・氏名・年齢・性別・電話番号・職業・参加希望日(リピート可)を
往復はがきに明記の上、下記住所まで送付のこと。
住所:〒230-8686 横浜市鶴見区鶴見2-1-1 大本山總持寺布教教化部参禅室
電話:045-581-6086  FAX:045-581-6348

坐禅修行中の著者(慈悲の会代表)
坐禅の姿勢
坐禅の姿勢(側面)

◎大本山永平寺東京別院長谷寺の坐禅会
 長谷寺では、毎週月曜日18:30~20:30の間次の3コースを設けている。参加予約等は必要なし。服装(持参品)は、坐禅しやすい恰好(ジャージ等) 参加費は100円
①初めての参加者は、『初心者講習』がある。
②2~5回目の参加者は、『2回目~5回目講習』がある。
③6回目以上の参加者は、即『参禅』
〇坐禅会の流れ(時間配分等)
・一炷目(18:30~19:10)
 (一炷とは、線香が燃え尽きるに要する約40分を意味する)
・経行(19:10~19:20)
 (経行「きんひん」とは、足の痛みをとるための歩く坐禅)
・抽解(19:20~19:30)
 (抽解とは、便所に行くなど次の坐禅に備える時間)
・二炷目(19:30~20:10)
 以上の流れは、6回目以上の参禅者の基本となる流れである。なお、『初心者講習』、『2回目~5回目講習』は、参加者の様子に合わせて独自の時間配分で行う。

大本山永平寺東京別院長谷寺の住所等は、次のとおり。
住所:〒106-0031 東京都港区西麻布2-21-34
電話:03-3400-5232
暁天坐禅(大本山永平寺東京別院)

5 法話録

 慈悲の会 代表 山寺邦道の法話録(適宜追加更新)

◎死への準備について

 今回は、人の一生と死をめぐる問題について考えてみたい。
 釈尊は、生老病死の人生を苦であると観念し、苦からの離脱を目指して修行した。別の表現をするならば仏教とは「悟り」を追求する宗教である。そして追及の先に求めるものは涅槃寂静(安心)である。しかし、人生は苦しみと絶望の連続である。幸せは不幸と不幸の間のつかの間の一時ともいえる。そして最後には必ず人生の終焉を迎える。こういった無情な人生をどう考えて生きるべきか。人生を三昧の精神で有意義なものにするか、あるいはその反対に死ぬまでの暇つぶし(遊び)にするかは、本人次第である。人の数だけ人生観があるが、拙僧がこれまで生きてきてこれだけははっきり言える哲学がある。それは、「よく生きることは、よく死ぬことであり、よく死にたいと思うならよく生きることである」ということである。
 釈尊は、瞑想(坐禅)によって悟り(涅槃)を得た。それはまさに三昧の境地である。真の三昧の境地は我々俗人には到底到達できない境地であろうが、精進によってそれに近い精神状態には至ることができると考える。それは無我夢中、集中、熱中、没我等の状態に自己を持っていくことである。そこに生きがい、張り合いが生まれ自己の満足がある。
 しかし、それでも人生には限りがある。やがてすべての人間に訪れる死から逃れることはできない。そのために何時お迎えが来ても後悔がないように死の準備が必要である。したがって、何時いかなることが起ころうとも悔いのないように、今日只今を一生懸命大切にそして丁寧に生きること以外にない。

 人間はどうして生まれてきたのか、人が死んだらどうなるのか、どこへ行くのか、死後の世界をどうとらえるか、人生に意味があるのか等々についての死生観の究明の試みは、太古の昔からなされてきており、その結論は永遠の命題である。
 釈尊は、弟子たちに死後の世界のことを聞かれたとき「無記」といって決してお答えにならなかった。
 また、弘法大師空海は、自著『秘蔵宝鑰』の中で、次のように記している。
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」
 これは簡単にいうと、我々は死がなんであるかを知らないとともに、どこから来てどこへ行くかを知れ得ない、すなわち人間の思考の域を超えているという意味である。
 それでは、人生に意味があるかどうかについてはどうだろうか。
 トルストイは西洋哲学のあらゆる文献を彼の地位と財力で集められるだけ集めて、それを約十年の歳月をかけて調べ尽くした。「人生は無意味である」いかなる西洋哲学を持ってしても、この結論だけは改め得なかったと約十年の研究の末結論付けている。
 およそ人間に死がなければ宗教や哲学は存在しないであろう。昔から宗教や哲学が中心にする対象は生死の問題である。特に仏教においては『正法眼蔵』に象徴される如く生死をどのように超克するかが大問題とされている。
 また、私たちは死を見つめることによって、自分に与えられた時間が限られているという現実を再認識することができる。それは毎日をどう生きていったらいいかを改めて参究することであるから、死への準備はそのまま生への準備に外ならないといえる。

 最後に重ねていうが、この世は諸行無常である。この世に絶対かつ平等なものがたった一つある。それは人の死である。人は遅かれ早かれ必ず死ぬ。したがって、何時いかなることが起ころうとも悔いのないよう、今日只今を全身全霊を傾け一生懸命生きることが肝要である。どうか皆様のご精進を期待して結びとする。

   御仏の慈悲の光に照らされて 唯ひたすらに今ぞ生き抜く


◎東京国際仏教塾等について
 拙僧は、東京国際仏教塾の二十四期生である。
 入塾の動機は、古希を目前に控え、以前からの念願であった東京国際仏教塾に入塾し、仏教に関する基礎的な知識を体系的に習得することにあった。
 期待どおり教育内容及び担当教授陣共々、日本の仏教塾の中では最もレベルの高い教育機関であると思っている。すなわち仏教系大学の仏教学部等と比較して勝るとも劣らないものと確信している。また同期生の方々も、既に仏教に関しかなりの知識を持っておられる方が多かった。加えて仏教に関する自己のポテンシャルを更に高めたいという真摯な気持ちが強く、また人間的にも立派な方ばかりであった。したがって、極めて有意義な教育を受けることができたことを今更ながら感謝している。
 東京国際仏教塾卒業直後、突然妻を亡くし残余の人生を妻の供養に捧げるべく、出家得度の決意をした。そして幸いにも縁あって元曹洞宗管長板橋興宗禅師様を導師として出家得度することができた。現在は曹洞宗の僧籍に登録され、正式な僧侶となり福井県の御誕生寺を師寮寺として、千葉県で修行活動中である。
 さて、僧侶の職務は、端的にいって二つあると考える。その一つは、周知のとおり現代日本社会において、死者に引導を渡す葬儀を執り行うこと、もう一つは、むしろこの方が本来の大切な任務であるが、悩み苦しんでいる人々の心を救済することである。
 この任務を遂行するために厳しい修行に耐え、そのための研鑽と自己陶冶に励まなければならないわけである。悩める人々の心を救済すべき根本は何か。それは煎じ詰めれば人生の生老病死等の苦の解決である。そしてそれは、煩悩の世界に生きている人々の死生観の参究に他ならない。したがって、目下亡き妻に対する悲嘆からの超克を胸に、死生観の参究にのめり込んでいる。
 拙僧は、毎朝一時間の勤行をしているが、その時線香とローソクの火を見ながら時々人生の諸行無常が我が脳裏をよぎる。勤行が終わるころには線香もローソクも既に燃え尽きている。人生もしかりである。人の一生は一瞬にして終わる。
 人間は必ず死ぬという厳粛な事実は、我々人間にとって未来永劫変わることはない。この厳粛な事実に立って、それではどのように生きるのが最良なのか。
 拙僧は妻の死を契機として、死生観についての自著を出版した。したがって、死生観について関心のある方は閲覧されることをお勧めする。
(山寺邦道『死生観』パレード出版 定価1600円+税・2021年4月電子書籍化)


◎三昧について
 三昧には王三昧(静中三昧)と個三昧(動中三昧)があり、王三昧とは坐禅のことを指し、個三昧は個々の三昧の意味で坐禅以外の精神集中のことである。
 この王三昧の中でも最も優れた至極の王三昧を体験した人は、例えば菩提樹の下で大悟された仏祖釈尊であり、また中国(宋)の天童山如浄禅師の下で坐禅中に身心脱落を体験した道元禅師その人である。
 一言で坐禅と言っても坐禅の程度(内容)には、様々なレベルがある。雲水が禅宗の専門僧堂で修行する勤行、作務、托鉢等は、個三昧を目指すものである。この禅道場での血のにじむような行住坐臥の集積から王三昧による大輪の花(大悟)を咲かせる人物が出てくるのである。
 なお、僧界以外でも例えばそれぞれの専門分野で立派な業績を残した人物等は高度な個三昧の境地に到達しているのではないかと拙僧は考えている。
 そのような境地を体験している人々に共通して言えることは、携わっている対象に対して、嬉々とした生き甲斐のある人生を歩んでいる人が殆どである。そこには苦しみのうちにも集中の充実感や達成感と安心が伴っている。
 快楽にふけることが幸福であると思っている生活は、心揺さぶる感激は湧かず、倦怠の結果だけが残るものである。生き甲斐とは感動する心でありそれは個三昧の集積から生まれるものであると考察する。
 拙僧が法話の際に必ず申し上げることであるが、この世には絶対かつ平等なものがたった一つある。それは人は遅かれ早かれ必ず死ぬということである。したがって何時いかなることが起ころうとも悔いのないように今日只今を一生懸命集中して大切かつ丁寧に生きることが肝要である。どうか真剣に打ち込める生き甲斐を見つけて今日只今の生活が充実したものとなるよう皆様のご精進を期待して結びとする。
 

◎永寿康寧について
 今回は趣の異なる法話をする。
 厚生労働省が公開した最新の日本人の平均寿命は、男性81.09歳、女性87.26歳で過去最高を更新した。一方男性の健康寿命は72.14歳、女性は74.79歳である。
 すなわち、自立した生活を送れる期間(健康寿命)が、平均寿命より男性は約9年(8.95歳)、女性は約12年(12.47歳)も短い。
 このように私たちの平均寿命は、延び続け今では人生90歳に手が届こうとしているが、その一方で自立した生活を送れる期間(健康寿命)が、平均寿命より前述したとおり男性は約9年、女性は約12年も短い。これは、支援や介護を必要とするなど健康上の問題で日常生活に制限のある期間が平均で9年から12年もあるということである。
 人間の健康は、先天的要素と後天的要素に左右される。遺伝性の病気等先天的要素は運命であるので自分の努力では如何ともし難い面もあるが、後天的要素は本人の努力次第である程度延伸可能である。
 そのためには、バランスの良い食事、禁煙、適度な運動、質の良い睡眠、ストレスを貯めない生活態度等自らが健康管理に万全を尽くすことが肝要である。
 表題の永寿康寧とは、健康で幸せに長生きすることを意味する。
 どうか皆様のご精進を期待して止まない。


◎釈尊の基本的な教えについて
  釈尊の基本的な教えは、集約すると次のとおりである。
〇縁起
  仏教の根幹をなす思想の一つで、世界の一切は、直接的にも間接的にも何らかの形で、それぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指す。縁起の語は、因縁生起の略で因は原因、縁は条件のことである。釈尊は縁起について「私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々が知り難く悟り難いものであるが、縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけである」という。この縁起は、仏教思想の中心で、釈尊の教えはこの縁起の法から展開されている。
〇三法印
 法印とは、法の旗印という意味で仏教の根本教理を指し、仏教がよって起こったその存在理由並びに他の教説との違いを如実に物語っている。すなわち、諸行無常(諸々の現象は、常に移り変わって永遠に変わらないものは何一つないという原理)、諸法無我(諸行無常より導き出された印であり、すべてのものには固定した実体我というものがないという原理)、涅槃寂静(苦楽や生死を超えた一切の煩悩が断ち切られ、輪廻することのない心身の安楽と静けさを獲得した境涯のこと)がそれである。また、これに一切皆苦(我々の生存の一切は苦しみである)を加えて四法印ということもある。
〇四諦(四聖諦)
 四諦とは、四つの真理ということで、苦諦、集諦、滅諦、道諦のことである。
苦諦とは、人間存在は苦以外の何ものでもないという真理であり、生老病死の四苦によって代表される。集諦は、そうした苦を集める原因のことである。苦には苦の原因があり、その原因が集諦で、その結果が苦諦である。その集諦とは、無明・煩悩のことである。一方滅諦は、その無明・煩悩が滅し、したがって、苦が滅した世界のことで、そこが涅槃といわれる世界である。それは決して虚無ではあり得ないはずで、真のやすらぎ、真の自由が実現した世界のはずである。苦しみの生存以外ではあり得ない人間も、その苦しみを滅することができるのである。道諦は、その滅諦を実現する方法、道のことである。道諦は滅諦の原因であり、滅諦は道諦の結果である。その道諦とは、要するに様々な修行のことになる。
〇八正道
 前述のとおり、煩悩を整えて人間の心身を安定にする真理を実践する修行の道が道諦の教えで、これには八項目が説かれるので八正道といわれる。八正道は正見(正しい観察)から始まる。正見が縁になって正思惟(正しい思索)となり、それを他に伝える縁が正語(正しい言葉)である。正しく思索し、話すことにより、正業(正しい行為)になり、正業は正命(正しい生活)を築く縁になる。それらが実るには正精進(励み)が必要で、精進を縁として初めの正見(正しい観察)の目は内に向けられて心中に法(真理)を思い浮かべるに至る。常に心に思いを浮かべて忘れないことを正念という。正念により人の心は安定しそれが正定である。以上要するに、慧(正見・正思惟)、戒(正語・正業・正命・正精進)、定(正念・正定)の正しい実践ということになる。
〇中道
 前述の八正道でいう正しいとは、仏教思想では縁起の道理にかなうという意味で、正道はまた中道とも呼ばれる。「中」も一方に偏らない均衡状態であるというだけでなく、縁起の道理に合致するものである。

 以上釈尊の基本的な教えについて述べてきたが、多数の関連文献を研究中に気が付いた件を付言して結びとする。まずその一点は、これまで釈尊の教えとして述べてきた内容は、釈尊自身が定型的にそのまま説いたものではなく、釈尊の死後、その多くの教説をまとめ上げていく中でほぼ一貫してその基底に流れる知見を後世の者が集約整理したものではないかとの印象を受けた。更にもう一点は、釈尊の教えの各項目内容は、それぞれ連鎖しており、また、八正道などという形でまとめられているものは、正に現在にも通じるこの世の道理そのものであると考察する。


◎日本仏教の現代的意義について
 日本仏教の現代的意義は、社会、政治、経済、文化、思想、倫理等広範多岐に渡るテーマであるが、ここでは仏教の基本的理念と現代社会の諸問題の関係及び葬式仏教の是非の二点に限定して法話する。なお、論述視点は、仏教理論としてだけでなく、修行実践の観点から社会とどうかかわっていくか考察してみたい。
〇仏教と現代社会の諸
問題との関係
 日本の仏教には数多くの様々な宗派が存在するが、その源流は釈尊の教理である。したがって、まず釈尊の基本的な教えの内容に触れその理念が現代の諸問題の解決にどのようにかかわっているか言及することとする。縁起の理法は、三法印の諸行無常に続いて諸法無我の「我」が否定される。現代の社会問題の多くがこのエゴ(利己主義)が元凶になっているが、その解決の糸口はこの縁起の理法等の認識にあるのではなかろうか。また、縁起の理法の現れ、すなわち真理を人生に則して総体的に表現したものに四聖諦がある。苦諦、集諦、滅諦、道諦がそれである。苦諦とは、生存するに伴う生老病死の四苦等のことであり、集諦とはその苦しみがよってきたる原因はそもそも何か、それは煩悩に他ならない。次に煩悩が滅んでなくなった状態として滅諦をあげ、そこへ到る道を道諦として八正道がある。すなわち人生は苦しみそのもの、その原因は、貪、瞋、痴を三毒とする煩悩だから苦しみから逃れるために煩悩を滅ぼさなければならない。そのためには八正道を実践しなければならないということである。釈尊は更に臨終の際の最後の教えである仏遺教経の中で少欲知足の精神を教えている。これまで自然と人間は、互いに対立する二元関係におかれ、自然は人間によって征服されるべきものとされてきた。今その行き着いた姿として自然破壊や核開発等のありようが問題視されるようになっている。それらは地球の存在そのものさえ危うくするようになってしまったからである。その結果、西洋思想から東洋思想に乗り換える必要性も提言され始めている。つまり絶対存在とそうではないもの、分かりやすく例えれば支配するものとされるものという二元的な関係を柱とする思想から仏教の「一切衆生悉有仏性」等に象徴される一元論に乗り換えなければならないということである。これこそが仏教の理念そのものである。地球の本来的機能である循環というサイクルの中で人間存在のありようを考えなければならない。これ以上の機能破壊を止め、次に破壊された機能を回復し、その保全に努めること、そうしなければ共存共生はあり得ず、したがって人類の存在もあり得なくなる。全人類がこの仏教の精神すなわち縁起の理法等にかなった生き方、四諦の理解と八正道の実践を常に忘れずに行動することが肝要である。
〇葬式仏教の是非
 日本仏教が葬式仏教に向かう大きな転機は、江戸幕府が定めた檀家制度が大きく影響しているが、この葬式仏教について言及する。葬式仏教とは、本来の仏教の在り方から大きく隔たった、葬式の際にしか必要とされない現在の日本の形骸化した仏教の姿を揶揄して表現したものである。すなわち葬式仏教といわれるのは僧侶たちが葬式や年忌の法事、墓地の管理等にかまけて、現在を悩みながら生きている人々の救済願望に応える努力をしないように見えることに対する批判である。しかし、翻って考えてみると、例えば葬式をきちんと僧侶が執り行ってくれるというのは、一人の人間にとって誕生と並ぶ死という一大画期的行事を荘重かつ厳粛に通過したいという願いに応えていることも間違えない。僧侶が行うのが葬式と法事だけというのは問題があるにせよ現代の仏教者は、こうした葬式仏教の必要性も認識したうえで、人生の終焉としての葬式仏教を丁重に行うことは、現在の日本仏教が果たすべき重要な任務であり、これはこれでまた有意義なことであると思量する。

 以上仏教と現代社会の諸問題との関り及び葬式仏教の是非について言及してきたが、最後に日本仏教の今日的関連に触れて結びとしたい。
 我々日本人にとって、仏教は現に生きている宗教であり、また、おそらくは今でも我々のものの見方、考え方に大きな影響力を及ぼしている。つまり、約千五百年の昔から日本に伝えられ始めた仏教が、極めて進歩した文明社会を実現しつつある現代においても日本の社会を構成する不可分の要素となっており、同時に、この社会を支える多くの人々の精神生活に深くかかわっているものと考察する。


◎曹洞宗の宗史と宗義について
〇曹洞宗の宗史
 日本の曹洞宗は、鎌倉時代に出現した道元禅師によって中国から伝来されたものであるが、以下その歴史の概要について、述べることとする。
 道元禅師が二十四歳で中国へ留学したのは南宋の時代である。中国の諸山を遍歴した後、二十六歳の時たまたま天童山景徳寺の住職となっていた中国曹洞宗の流れをくむ如浄禅師(中国曹洞宗の祖洞山良介から数えて十三代目の祖師)に相見し、釈尊以来の正伝の仏法を相承することができた。二十八歳で帰国した道元禅師は、直ちに普勧坐禅儀一巻を撰述して正伝の仏法を宣揚したが、当時は比叡山を中心とした旧仏教側の圧力もあり、正伝を宣揚するためには、真の求道者を養成することが急務であると考えられ、宇治の興聖寺、更には越前の永平寺を通じて人材の養成に専念された。この道元禅師の精神は、その後を継いだ永平寺二代の孤雲懐壌禅師、永平寺三代で加賀の大乗寺を開かれた徹通義介禅師を経て、その弟子瑩山禅師に受け継がれた(瑩山禅師は、大衆の教化、祈祷の採用、偶像崇拝を認め、宗門の名称を禅宗・曹洞宗と呼ぶなど道元の主張を緩め、大衆に馴染み易くした。したがって、曹洞宗の今日の繁栄は瑩山禅師の解釈改宗によるところ大であるといわれている)。そして瑩山禅師のもとには、後に永光寺を継いだ明峰素哲禅師、總持寺を継いだ峨山禅師が出られ、その門下にも多くの優れた人材が輩出し、日本各地に曹洞禅が広まっていった次第である。特に今一つ中国禅宗の流れをくむ臨済宗が、幕府や貴族階級など、時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依を受け、専ら地方へと教線を伸ばしていった。すなわち、鎌倉末期から室町時代にかけては、臨済宗が鎌倉や京都に最高の寺格を有する五ケ寺を定めて順位をつけた五山十刹の制をしき、五山文学を中心とする禅宗文化を大いに発展させたが、曹洞宗はこうした中央の政治権力との結びつきを避け、地方の民衆の中にとけこんで、民衆の素朴な悩みに応え、地道な布教活動を続けていった。しかし、長い歴史の間には宗門にもいろいろな乱れや変化が起こっている。江戸時代になると、徳川幕府による寺檀制度の確立によって、寺院の組織化と統制が加えられる一方、宗学の研究を志す月舟宗胡、卍山道白、面山瑞方等の優れた人材が出て、嗣法の乱れを正して道元禅師の示された面授嗣法の精神に還るべきことを主張した宗統復古の運動や、正法眼蔵を始めとする宗典の研究、校訂、出版などが盛んに行われた。明治維新となり、神道を中心に置こうとする新政府は、神仏を分離することで仏教を廃止しようとする廃仏毀釈を断行し、仏教界に大きな打撃を与えた。しかし仏教界の各宗もよくこの難局に耐え、曹洞宗には大内青巒が出て『修証義』の原型を編纂し、その後、總持寺の畔上楳仙禅師、永平寺の滝谷琢宗禅師の校訂を経て宗門布教の標準として交付され、在家化導の上に大きな役割を果たした(特に『修証義』は、今、『般若心経』とともに曹洞宗の檀信徒に最も親しまれている宗典である)。こうして曹洞宗々門は、現在全国に約一万五千寺の寺院と、約八百万の檀信徒を擁する大教団に発展し、今日に至っている。
〇曹洞宗の宗義
   宗義とは、広辞苑によれば宗門の根本となる教義とある。すなわち教義とは宗教の信仰内容が真理として公認され、信仰上の教えとして言い現わされた教理ということになる。したがって、曹洞宗宗憲第三条(宗旨)及び第五条(教義)等がこれに相当すると思量する。以下その宗義(宗旨・教義等)の条文内容について説明を加えることとする。曹洞宗宗憲第三条は、「本宗は、仏祖単伝の正法に従い、只管打坐、即心是仏を承当することを宗旨とする」とある。仏と人間は別物ではない。損得や欲望など煩悩が働きだす以前の心は静寂で、その世界は万人に共通している。したがって、師と弟子の悟りは異なるものではなく、坐禅で静寂が信じられ、それになりきったら、師と弟子も同じ世界にいることになる。師から弟子へ同じ静寂を伝えるから単伝というのである。その坐禅の世界に心底落ち着いていることを只管打坐という。その時、煩悩に染まった汚れた心をさしはさむ隙がないことを即心是仏という。静寂無心が直ちに仏の涅槃の世界なのである。それを最初に語ったのが釈尊であり、日本で正法眼蔵(曹洞宗の最も重要な根本経典であると同時に日本の生んだ最高の仏教思想書)に著し、教示したのが道元禅師である。
 次に曹洞宗宗憲第五条には、「本宗は、修証義の四大綱領に則り、禅戒一如、修証不二の妙諦を実践することを教義の大綱とする」とある。修証義には信仰生活の原則が、四大綱領(懴悔滅罪・受戒入位・発願利生・行持報恩)という言葉でまとめられている。この四大綱領を要約して禅戒一如と修証不二という。禅戒一如というのは、禅と戒は一つだということである。一般に、戒は、戒律と同義語として扱われ、悪いことをしないで善いことをする、ないし道徳的、倫理的な禁止条項をいう。個人生活でも、人格を向上し、平和に暮らすには、道徳や倫理が不可欠な要件になることはいうまでもない。つまり、誰でも本来的に持っている真心、偏らない、とらわれない、そして、すべてのものを慈しみ愛する心のこと、仏教的に表現すれば、仏心、仏性のことである。この真心から考え、発言し、行動するのでなければ、真の道徳・倫理とはならないのである。このような、いわば大宇宙的な広大な視野に立って、すべてのものの命、人間の真心を自覚することが、実は禅(只管打坐・即心是仏)に他ならないのであり、この自覚の上に立つ生活が戒である。敢えていうならば、禅は命、真心の静的な面であり、戒はその動的な面であるから禅は戒に展開し、戒は禅に帰一するので、その意味で、禅と戒は、二つであって実は一つなのである。そこで戒を特に仏戒と呼んでいる。仏戒の生活では常識的な善と悪など、道徳・倫理を包み込んでいるから善と悪の対立はないし、善と悪に束縛されない。たとえ悪とみなされることも善に転換され、蘇生するのである。また、悪いことをしようにもできないという高い次元に立つわけである。受戒入位にはこのような 意義が潜んでいる。一方、修証不二とは、修行と証悟は一つだということである。一般的には修行は証悟に至るまでの過程にすぎないと考えられている。しかしながら修行するその過程の中にこそ証悟があるのではないだろうか。証悟の中にこそ修行がある。強いていえば、証悟としての修行、修行としての証悟である。修行も証悟もそれは元はといえば、大宇宙のありよう、大宇宙と直結している。今、ここでの私たちの命の絶対的事実を表現したのに過ぎない。現実はそのまま理想であり、理想はそのまま現実である。今、ここでかけがえのない命を、その命のありのままに生きていくことを自覚した生き方を、修行といい、証悟という。そういう修行・証悟を修証不二という。『修証義』で具体的に示すと、第二章懴悔滅罪、第三章受戒入位は証であり、第四章発願利生、第五章行持報恩は修である。証といっても、先に述べた、命の絶対的な自覚に立つから、特に本証とし、修といっても、この本証のおのずからの活動であるから、特に妙修として、本性妙修という。 


◎死生観について  
 死生観とは、生きるとはどういうことかを死を通して考えることであるが、様々な視点がある。なぜ生まれてきたか、人生とは何か、人生に意味があるのか、生きることとは何か、何のために生きるのか、どう生きたらいいのか、どうして生きていかなければならないのか、生についての人々の考え方や理解の仕方はどうなのか、また、死ぬこととは何か、人が死んだらどうなるのか、どこへ行くのか、死後の死者をどうとらえるか等々。要するに、生き方、死にざまに関する社会や個人の考え方といってもよい。
 現代では個人に重きがおかれ、死生観といえば、生きることと死ぬことについての個人的な人生の指針と見なされる傾向にある。
 人は生きてきたように死ぬといわれるように人の生涯は死にぎわに凝縮される。その死にざまが各人各様であるように、それぞれの死生観も百人百様で語り尽くし難い。自分には死生観などはない、今を精一杯生きることが自分の人生のすべてだといい切る人もいるだろうが、それもまた立派な死生観である。
 したがって、以下様々な観点から死生観を見ることとしたい。
 まず、死生観が宗教と深いかかわりを持つことはいうまでもない。したがって、日本仏教七宗祖(天台宗の最澄、真言宗の空海、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元)の中で最も死生観について参究した道元について、その著書『正法眼蔵』の「生死」の巻をもとに論を展開することとする。
 次に哲学と死生観について省察し、更に絶体絶命の立場に直面した先人たち等、あらゆる視点から死生観について概観することにする。
〇『正法眼蔵』に見る死生観
 『正法眼蔵』は、曹洞宗の宗祖道元禅師が著した宗教の哲学書である。
   『正法眼蔵』の「正法」というのは、正しい教法の意であり、「眼」はその正法の精髄、本質のことであり、「蔵」とはすべてを包摂して、漏らすことのない意である。したがって、正法眼蔵とは、仏教という正しい教法の精髄を漏らすことなく集成した書物ということになる。
『正法眼蔵』は、仏道修行して将来僧侶になる人たちのために書かれたものであり、一般の在家俗人のために書かれたものではない。初めから終りまで、具体的に坐禅修行する上での注意と心掛け、志のありようを説いている。だから、おそらく江戸時代までは専門の修行僧しか読まなかったものと思われる。江戸時代までほとんど読まれていなかったが、近代になってからの道元人気を考えると、それは嘘のようである。
 死の発見が宗教や哲学の誕生であることからして、この著書の根底には脈々と死についての哲学が包含されているのである。道元がその最後の頃の巻にもう一度「生死」の巻を取り上げたということは、やはりこれが道元の中心にある問題だったのだろう。
 また『正法眼蔵』は、難解でその訳や注釈は、僧界のそれといわず、研究者のそれといわず、一つとして同じものはない。それは正に『摩訶般若波羅蜜多心経』の訳と同様であり奥が深いということを物語っている。

 道元は、「生死」巻で、とことん掘り下げた死生観を展開している。すなわち、その文言の中に、彼の生と死に対する凝縮した思いが込められている。
 まず次の一文に注目してみよう。

  この生死は、即ち仏の御いのち也。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御
 いのちをうしなはんとする也。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏のいのち
 をうしなふ也、仏のありさまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、こ
 のときはじめて仏のこころにいる。

 人間の正と死は仏の命である。これほど大事なものをないがしろにするなら、それは仏の命を奪うことになる。また逆に、これを大事にし過ぎて生死にとらわれ過ぎてしまうのも仏の命を奪うことになる。ただ外形だけで仏らしくしているにすぎない。だから、私たちは生と死を、厭うこともなく、執着することもなくなったとき、仏の心の中にいるということを悟れるのだ。

 生死を仏の命と捉えた道元は、次いで「生死」巻第一段で、「生死即涅槃」という仏教本来の死生観に立って、いたずらに「生死を厭い、涅槃を求めること」の誤りを述べている。

  生死の中に仏あれば生死なし。又云く、生死の中に仏なければ生死にまどわず。こ
 ころは、夾山・定山といはれし、ふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれ
 ば、さだめてむなしくまうけじ。生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあ
 きらむべし。もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむ
 かひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめ
 て、さらに解脱のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死とし
 ていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなる
 る分あり。

「迷いの中に悟りがあれば、迷いはなくなる」
またいう、
「迷いの中に悟りがなければ、迷いに迷うことはない」
 この言葉は、宋代の禅僧の夾山善会と定山神英という二人の禅師のものである。悟りを得た人の言葉であるから、無意味なものであるわけがない。
 迷いから離脱したい人は、まさにこの言葉の真意を明らかにすべきである。人がもし迷いの中で、別のものとしての悟りを求めるならば、車のながえを北に向けて南の越の国に向かい、顔を南に向けて北斗星を見ようとするようなものだ。それだと、むしろ迷いの原因を寄せ集めて、ますます解脱への道を見失ってしまう。ただただ「生死」が即「涅槃」だと心得て、「生死」(迷い)であるからといってこれを忌避せず、「涅槃」を願ってはならない。そうしたとき、はじめて「生死」(迷い)を離れる手立てができる。
 丁寧に訳すと以上のようになるが別の表現で少し簡潔に説明すると次のようになる。
 生死が仏であるが故に「仏きり」と説く夾山と、生死が仏そのものであるが故に「生死きり」と説く定山の語を引きながら、「仏の御いのち」の生死について説く。生死のほかに仏を求めることはまったく無意味なことで、かえってそれによって生死の原因とかを集めては、解脱の道を見失うことになる。「生死は涅槃(悟り)」と心得て、その生死を厭うことなく、その涅槃を願うことがなくなったときに、苦である「生死」から解放されたこととなると説く。
 この箇所は、曹洞宗で最も読誦されている『修証義』の経文の総序の冒頭に引用されているほど重要な意味を持っている。

 次いで第二段で、人間の「生と死」についてさらに追及する。「生きたらばただこれ生、滅きたらばただこれ滅」と説く圧巻の部分である。

  生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひとときのくらゐにて、すで
 にさきあり、のちあり、故に仏法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときの
 くらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。生とい
 ふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆ
 ゑに、生きたらばただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふこと
 なかれ、ねがふことなかれ。

 生から死に移ると考えるのは間違いである。生は一時のあり方であり、その中に先があり後がある。それ故、仏法においては、生がすなわち不生だという。滅(死)も一時のあり方であって、その中に先があり後がある。したがって、滅がすなわち不滅というのだ。生というとき、生のほかに何もなく、滅(死)というとき、滅(死)のほかに
何もない。したがって、生きているときはただひたすら生に向かい、死ぬときは死に向かって、しっかりと対応すればよい。死を忌避すべきではないし、生を願ってもならぬ。
 別の表現でもう少し分かりやすく訳すと次のようになる。
 人間の生涯を生から死に移ると考えるのは間違えだ。生はある時点のことであり、これにも後と先がある。だから仏法の教えに、「生は不生」というのだ。滅もやはりある時点のことをいうのであって、これにも後先がある。「滅は不滅」というのはそのためだ。したがって、「生」というときは「生」以外になく、「滅」というときも「滅」以外にない。だから「生きたなら生であり、滅来たなら滅にしたがう」のがよい。生と死を厭うこともなく、涅槃(悟り)を願うこともないのだ。

 第二段の「生きたらばただこれ生、滅きたらばただこれ滅」をさらに徹底させたのが第三段である。ここでは、まさに「生死の超克」の仕方が説かれている。

  ただし、心を以てはかることなかれ。ことばをもっていふことなかれ。ただわが身
 をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、こ
 れにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死を
 はなれ、仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。

 ともあれ、あれこれ揣摩臆測するな。言葉でもって言おうとするな。ただ、我が身とわが心をすっかり忘れ去ってしまい、すべてを仏の家(仏の世界)に投げ込んでしまって、仏のほうからの働きかけがあって、それに随っていくようにしたとき、力も入れないで、心労もせず、迷いを離れて悟りを得ることができる。そのようにすれば、誰も心を悩ませることはない。
 すなわち、人間の生死を、心や言葉で捉えてはいけない。身も心も捨て切って、仏の中に入り込み、この仏の側から坐禅をしていけば、力を入れることなく心を費やすこともなく、自然体で生死から放たれ、仏となる。
 そして、「仏となる道」を具体的に示したのが第四段である。

  仏となるに、いとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころ
 なく、一切衆生のために、あわれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづ
 をいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふることなき、こ
 れを仏となづく。又ほかにたづぬることなかれ。

 悟りを得るに簡単な方法がある。諸々の悪事をせず、生死に執着することなく、すべての衆生に慈悲深く、上を敬い、下を憐れみ、万事に対して厭う心を持たず、願う心を持たず、心にあれこれ思わず、憂うる事もない、それを悟りと名付ける。そして、それ以外に悟りを求めてはならない。
 すなわち、道元は「仏となる道」として、悪を働かないこと、生死にこだわらないこと、慈しみと尊敬の心を持つこと、万事を厭わぬこと、願わぬことが大切であると説く。

 現代日本仏教宗祖の中で道元ほど、私たち人間の生と死について徹底した思索を深めた人はいない。これを「仏の御いのち」と捉えて、真正面から追求し、私たちの生と死の苦しみを解き放つ道を示したのである。
〇哲学と死生観
 西田幾多郎と鈴木大拙は、日本を代表する世界的な哲学者と宗教家であるが、身内の死の悲嘆体験を超克して後世に残る仕事を成し遂げた。そこで先ずその概要について述べることにする。しかる後に、世界の著名な哲学者の死生観について紹介することとする。
・哲学者の死の超克
 西田幾多郎と鈴木大拙という偉大な二人が同じ1870(明治三)年に同じ石川県で生まれ(西田:石川県河北郡宇ノ気村、鈴木:金沢市本多町)、同じ学校(第四高等中学校予科)の同級生(第一級)として学んでいる。これは歴史上奇跡のような偶然だが、そこには必然性も秘められている。加賀は歴史的に宗教性の高い精神風土である。
 鈴木大拙は次のように記している。「加賀の者とか北陸の者は昔から宗教心が強いとよくいうが、一向宗なんというような浄土真宗の盛んな本場でもあるし、また禅宗の方では曹洞宗に能登総持寺があるし、越前永平寺があって、禅も盛んなところである。加賀の殿様も代々曹洞宗であったのだから、金沢に曹洞宗の大きな寺がある。大乗寺にしても天徳院にしても立派な大きな寺である」このような精神風土の中で西田も鈴木も若い頃から、自然によく参禅した。そして明治初年、第四高等中学ができたばかりのころ若き西田と鈴木は、編入学し机を並べて切磋琢磨した。したがって、嫌が上でも学問への情熱は高まったと思われる。

 そこに次々と二人に降り掛かる二人称の死が訪れた。二人称の死とは家族など親しい者の死のことである。「二人称の死」という言葉は古くから、宗教学、哲学に登場していたが、日本で広く認知されるようになったのは、作家柳田邦男が次男の自死を看取った記録『犠牲わが息子・脳死の十一日』以来である。柳田はこの著書の中で二人称の死を次のように規定している。「『二人称(あなた)の死』とは、連れ合い、親子、兄弟姉妹、恋人の死である。人生と生活を分かち合った肉親あるいは、恋人が死に行くとき、どのように対応するかという、辛く厳しい試練に直面することになる」柳田自身、次男の脳死を看取って、脳死・臓器移植等の現代医療、生命倫理問題に対して様々な提言をしていくようになった。二人称の死を体験した人は大きな悲しみの中に陥る。暫くは誰もがうつ状態の中にある。時には江藤淳のように、立ち直ることが出来ずに自死する者もある。フロイトは喪失体験から立ち直る時、何らかのモーニングワーク(喪の作業)が行われると論考している。悲しみを、例えば言語化することによって、身体から切り離し「思い出」化していくような作業である。天才人であればそれが優れた芸術作品にもなる。人生が変わっていく場合もある。深い悲しみから人生の深淵を知り、人生の無常を悟り、詩人、求道者、哲学者、宗教家になっていく天才人もいる。道元は八歳の時に母を亡くし、世の無常を感じて十四歳で出家し、偉大な祖師となった。ダンテやゲーテの文学も二人称の死から生まれた。
 鈴木大拙が六歳の時に父良準が五十四歳で亡くなった。その二年後に次兄・利太郎が十一歳で早世した。大拙の母・増はこの二人の死に強い精神的衝撃を受け深いうつ状態を呈したという。その癒しを求めて様々な宗教的行動を取るようになり、自然に大拙も母の行動に感化されていった。

 一方西田幾多郎が記憶にとどめている最初の肉親との死別体験は1883年の次姉・尚のチフスによる病死であった。当時十三歳だった幾多郎は四歳年上の聡明な姉の死に大きな衝撃を受けている。また、幾多郎は、家族としては両親を、四人兄弟姉妹のうち三人を、更に八人の子供のうち五人を亡くしている。中でも次女幽子を六歳で亡くした後は深い悲嘆状態を呈した。死別体験後何度かうつ状態を呈し、いつしか「人生は悲哀である」という彼の哲学的思索において根本となる死生観を形成するようになった。その悲嘆体験が「善の研究」の完成に繋がっている。

 要するに金沢の歴史的宗教風土の中で西田幾多郎と鈴木大拙は共に二人称の死による深い悲嘆を体験し、幾多郎は哲学を大拙は禅を極めていくことで、超克していったといえる。
・哲学で考える死生観
 人が死んだらどうなるのかということを、哲学的見地から簡単にまとめてみることにする。
 哲学の歴史の上でも、死後に関する議論の長い伝統がある。古代ギリシャの哲学者ソクラテスやプラトンは霊魂不滅説を説いている。これは人間のうちにある本質、つまり霊魂は、本来不滅であり、善き人の魂は死後に肉体を離れて、完全な幸福を得るために新たな存在の次元に移るとする説である。
 この霊魂不滅説は、ことさら霊魂と肉体を対立させた上で、肉体を軽視する極端な二元論ともいえるだろう。
だから、人間存在を心と身体の不可分な統一体と見る現代的人間観とは、相いれない点がある。しかし、人間の本質は不朽であると説くプラトンの教えは、人間性の尊厳を明らかに示すものとして、後代の哲学者たちにも様々な影響を与えている。

 エピクロスの死生観
 人間の魂とはアトム(分子)が結合した物体であり、人が死ねば、身体は分解され魂も分散するので、その時にはもはや感覚はない。つまり、死んでしまった後には、もはや死を経験するということ自体あり得ない。何かを経験するということは生きている間のみ可能なことだからである。そして、そうであるならば死は決して自らが経験することのできないものであり、死んだ後のことを死んだときに考えることはできず、もちろん生きているときは、死んでいないのだから死について考えることは無意味である。
 このように考えたエピクロスは、こう結論を出した、「死は存在しない。だから考えてもしょうがない」と。エピクロスは、生きているときは死んでいないし、死んだらもう人間として存在していないのだから、死は生きている者にも既に死んだ者にも、どちらにも関係がないものとして、死を「どうでもよいもの」として度外視することで、人間の最大の不安・悩み・問題である死を克服しようとした。
 エピクロスの哲学は、快楽主義(瞬間的な快楽ではなく永続的な快楽を目指す立場)と称されるが、しかし実際には、死は自分には無関係なものとして、ここまで冷静に達観できる人間はまずいないだろう。

プラトンの死生観
 プラトンの哲学を理解するためには、まずイデアという概念を理解する必要がある。イデアとは一言でいうと「永遠不変の真理」で、理性的認識の対象となるものである。もっと簡単にまとめると「真実」ということである。そのイデアが存在する世界をイデア界(英知界)といい、私たちが今いる世界(この世)を現象界という。
 プラトンは、私たちが現象界で見るものはすべて、イデア界のコピーと考えた。例えば、プラトンのイデア界を説明するときによく三角形の例えが用いられるのであるが、私たちは完全な三角形を書くことができないにも関わらず、本当の三角形がどんなものかを知っており、それをイメージすることができる。しかし実際には、本当の三角形は私たちの世界には存在しない。どんなに綺麗な三角形を書いても、線の太さや点の大きさ(面積)など本当の三角形には存在しないものが生じるし、そもそも、例え精密機械やコンピューターを使ったとしても、厳密な意味での本当の直線を書くことは絶対にできない。しかし、決して書けないし決して見ることができないにも関わらず、私たちは本当の三角形、つまり三角形のイデアを知っている。
 プラトンによれば、魂は肉体に宿る以前に天上界でイデアと接しており、このイデアを分有する不完全な地上のものと接すると、私たちは忘れていたイデアについての知を思い出す。だから、私たちは見たことがなくても、理性的には完全な三角形を知っている。
 三角形だけでなく、私たちが現象界で見るすべてのもの(リンゴ、犬、車、机、本、ペンなど目につくものすべて)、そして具体的に形としては目に見えないもの(愛、正義、勇気など)もすべて、イデア界においてイデアとして存在している。現象界という現実世界のものはすべて非存在で、それらはイデアが不完全な形で現れたものでしかなく、そして実は、人間の魂ですらそうなのである。私たちは、現象界においては年老いて必ず死ぬという自然の摂理を免れることはできないが、真の魂が別の場所(イデア界)にあるとするのなら、死んでしまったとしても、存在そのものが消えるということにはならない。
 つまり、「死は存在しない。だから考えてもしょうがない」といったエピクロスとは異なり、プラトンは「死後の世界は存在する」という立場である。魂はイデアの知識をもってこの肉体に入り込んできたものであり、だから魂は、肉体が滅んでも決して滅びることはなく、死後の魂はハデス(楽園)に存在し続けると考えたのである。

ハイデッガーとヤスパースの死生観
 人は必ず死ぬ。それ故に、人は死ぬことや死んだ後のことを考え、不安になる。その不安を和らげるには、できるだけ死について考えず、死を忘れるしかないという考えが、「死など無関係なものだ」といった前述のエピクロスの立場である。
 しかし生身の人間としては、やはりエピクロスのように死を楽観視することは難しく、忘れようとしてもどこかで死を考えてしまう。そうであるならば、「死から逃げたりはせず、むしろ死と正面から堂々と向かい合おう」というのがハイデッガーやヤスパースの立場である。
 もしかしたら明日死ぬかもしれない、という可能性を受け入れれば、時間は非常に価値あるものとなり、くだらなく意味のないことに時間を費やすことはなくなり、未来の可能性に自分自身を投じることができるようになる。そして、その時初めて「良心」からの声が聞こえ、この良心が、よりよく生きることができるという自信、確信に繋がるとハイデッガーは考えた。ハイデッガーは、不安や恐怖をもたらすものとされている死を積極的に引き受け、死を自覚することで、人間は本来的な存在の意味を明らかにできると考えたのである。
 ヤスパースの死生観も、基本的にはハイデッガーの考えと共通している。厳密には違いがあるが、少なくとも結論はほぼ同じである。死には完全が秘められていると考え、だからこそ死に向けて日々を大切に生きることが必要で、そうすることでただ漫然と生きることの無駄を知り、死に対する態度が変わり、偉大な事業を成し遂げることができると考えたのである。

 要するに、エピクロスは「死はどうでもいいもの」といい、プラトンは「死後の世界は存在する」といったが、それに対してハイデッガーやヤスパースは、エピクロスとは逆に死は正面から向き合わねばならない重要なものと捉えながらも、プラトンのように死後の世界のことにまでは言及していない。
〇歴史上の人物に見る死生観
 死生観は、人の数だけあり千差万別である。拙僧は、本研究を通じて数多くの人間の死に様に接することができた。ここにそのすべてを紹介することはできないので、歴史上よく知られている著名人のうち、特に拙僧の印象に残った者の中から、以下五名について時系列順に紹介することとする。
・西行法師の死生観
 西行法師(1118-1190)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武人・僧侶・歌人である。
 西行が出家した動機は、仏教に深く帰依したからではなかったといわれている。北面の武士であり荘園の所有者という上流階級の佐藤義清が二十三歳という若さで出家した理由としては、盛衰変転の世に対する厭世観説、また友人の急死による無常観説、さらには高貴な女人待賢門院璋子への悲恋説などが挙げられるが、その真実の程は定かでは
ない。
 また、和歌は、生涯を通じて歌壇とは距離を置いていたが、新古今集では九十五首の最多入集歌人であるから、抜群の才能があったものと思われる。
 以下西行の有名な和歌をもとに彼の死生観について省察することにする。

   願はくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃

 これは、西行の和歌の中で最も広く知られた歌である。この歌は死に臨んだ作、いわゆる辞世の歌ではない。死ぬ十年ほど前に作ったものである。六十歳半ばの西行が、できれば「こういうように死にたい」と願って詠んだ歌である。
 西行の死生観を一言でいえば、花(桜)と月、これに尽きるわけであるが、それはある意味で日本人の死生観の原点でもある。
 ところで、この歌が名高いのはその歌自身のもつ具体的表現と説得力にもよるが、実はもっと衝撃的なことは、西行はこの歌のとおりの死に方を実際にしたということである。
 この歌が詠まれてから十年ほど経った1190(建久元)年二月十六日(陰暦)、まさに花の盛りの如月の満月のころ、西行は河内国(大阪府)南葛城の弘川寺で七十三年の生涯を閉じた。
 その死は、当時の人々に大きな衝撃を与えた。「願はくは花のしたにて春死なむ」と歌った人が、あたかも「そのきさらぎの望月のころ」、それは釈尊入滅のころにもあたる日、その通りに死んだのである。
 当時の貴族の間では西方浄土に往生することが最高の願望であっただけに、西行のこの死は最高の往生の完成、今風にいえば自己実現として、人々を驚嘆させた。
 まず藤原俊成が『長秋詠藻』の中でそのことに触れ、慈円なども『拾玉集』に取り上げて、西行の往生のありさまに感嘆の声を上げている。

 それではなぜそういう死に方ができたのか。
 西行が息を引き取ったその弘川寺は、葛城山の西麓にあり、死の前年になって、にわかにそこに移り住んでいる。山中に庵を結び、ほんのわずかな期間そこに寝起きして、最期を迎えている。死に場所として、そこを選んだのである。
 けれども、翻って考えてみるに、桜が咲く満月の夜に死にたいといくら願っても、そんな幸運に果たして恵まれることがあるのだろうか。いくらそう願っても、その通りに往生できる保証は、どこにもない。
 ただし、願望通りの唯一の死に方がある。それは断食死である。
 西行は自分の生命の急速な衰えを自覚したとき、死ぬための場所を密かに心に決めたのであろう。それが河内の弘川寺であった。繰り返していえば、彼は死の前年にそこに移り、山中に庵を結んでいる。そして間もなく病の床に臥している。明らかに、自分の死に場所をそこに定めたのである。それが1189(文治五)年秋のことであった。あとは、最後の日を決めることだけである。
 年が明けて、彼はゆっくりと食を遠ざけていったであろう。それは、すでに前年の暮から始められていたかもしれない。
 『往生伝』に出てくる多くの往生者たちが、その生涯の総仕上げの時に断食の行を選んだように、西行もまた枯木のような姿になって「そのきさらぎの望月のころ」を選び、その日を目指したことだろう。
 彼の死が、後世の人に全面的に美化される傾向にあるが、臨死に際してはこの断食死のような壮絶な最期を迎えたに違いない。

 この断食死を思うとき、拙僧の脳裏には緩和ケア病棟で食事も摂れないで衰え行く亡き妻の姿がまざまざと思い出されるのである。
 妻は死ぬ約二十日前から摂食しなかった。西行のように意識して断食したのではなく摂食したくともできなかったというか、身体が食物を受け付けなかったと思うが結果として断食には違いない。これにつけても、人生の終焉というものがいかに厳しいものかということを感じずにはいられない。
・吉田兼好の『徒然草』に見る死生観
 吉田兼好(1283-1352)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人、遁世者、歌人、随筆家である。
 清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と並んで日本三大随筆の一つである『徒然草』の作者でもある。
 この『徒然草』の根底を貫く主題は無常すなわち死である。全編これ死に対する心構えをもって組み立てられているといっていい。文章で最も力があるのもそれらの章である。その中で兼好がまず警告するのは、人間にとって死はいつ訪れるかしれないものだ、その事実を絶えず心に
ページの先頭へ