新着情報

2021.10.01
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1 僧侶派遣・慈悲の会(曹洞宗)

◎法要内容等

〇通夜、葬儀(二日)(戒名・読経・法話・お膳料・お車代・心付け)――――13万円

〇一日葬(戒名・読経・法話・お膳料・お車代・心付け)――――――8万円

〇直葬(戒名・読経・お車代・心付け)―――5万円

〇年忌法要等(読経・開眼、閉眼供養・法話・お車代・心付け)――――――万円

◎派遣エリア

東京23区、千葉、埼玉

◎依頼先(お問い合わせ)

慈悲の会(曹洞宗) (携帯電話:090-1218-3785)(08:00~20:00)

          (固定電話・fax兼:047-433-9373

(メール:yamadera24@jcom.zaq.ne.jp

2 自著販売

◎山寺邦道『死生観』パレード社

概要紹介:本書は、第一部妻の死、第二部得度、第三部死生観から構成されている。

第一部では亡き妻の悲嘆と無念さを著者が時の経過によって風化させずに心に焼き付ける想いから、亡妻の闘病生活を中心に記述したものでる。また第二部の得度は、日本仏教七宗派のうち僧侶になるのが最も厳しいとされる曹洞宗の禅僧を目指して、古希をはさみ著者が修行した経過等について論述し、更に第三部では、第一部と第二部を踏まえた上で死生観を様々な観点から参究したものである。
「この世に絶対かつ平等なものがたったひとつある。それは死である」ー愛妻を亡くし、僧界に入った老禅僧が死生観を参究する―
                                                       (2021年4月電子書籍化)

(1800円=定価1600円+消費税+送料)


◎山寺邦道編著『死への準備』パレード社

概要紹介:本書は、二部構成となっており、第一部は死への準備、第二部は僧侶の任務である。

僧侶の職務は端的にいって二つあると考える。それは悩み苦しんでいる人々の心を救済すること、もう一つは死者に引導を渡す等仏事を執り行うことである。前著『死生観』は、出版後多数の読者からの温かいご感想を頂いたが、それらのご所見等をも踏まえ、第一部では、死をめぐる主要問題について様々な観点から考察し、また第二部では、昨今の葬祭業務のほとんどすべてを取り仕切っている葬儀社といえども犯すことができない僧侶の大切な任務である戒名授与と葬儀・読経等について解説したものである。
「よく生きることは、よく死ぬことであり、よく死にたいと思うならよく生きることである」   (2022年6月電子書籍化予定)

1700円=定価1500円+消費税+送料)


◎山寺邦道編著『禅』パレード社

概要紹介:本書は、禅なかんずく坐禅の概要等を総括的に理解するためにまとめたものである。
本著は禅に関するある程度の基礎知識をお持ちの読者を対象にまとめたものであるが、仏教の専門用語や禅特有の言語に加えて人名等当用漢字にない読解困難な文字が文中に散見されているので難解な印象を持たれる読者が多いと思われる。したがって、少しでも読者が興味を持って理解していただけるように禅語の紙面を多く取るとともに禅に関する故事を本書の全面に散りばめてある。
読者が本書を通読され、広義の禅(坐禅)思想の概念の一端でも理解していただければ幸いである。
「禅は仏の心であり、坐禅は禅の象徴である」(2024年電子書籍化予定)

(1700円=定価1500円+消費税+送料)


◎依頼先(お問い合わせ)

慈悲の会(曹洞宗)(固定電話・Fax兼:047-433-9373

(メール:yamadera24@jcom.zaq.ne.jp


死生観
死への準備

3 揮(き) 毫(ごう)

◎掛軸等の揮毫請け合い(揮毫僧侶山寺邦道は高等書道師範)
掛軸・額・帖・巻子・扇子・短冊・色紙等の揮毫

◎サンプルの解説等(各画像を左クリックすると拡大する)
〇諸行無常(掛軸-上下部分省略)
 諸行無常偈といわれ涅槃経にある四句の偈である。これが空海のいろは歌と整合しているところが絶妙である。簡潔に表現すれば、万物は無常にして生じては滅し再生しては又滅していく。それが静まり止むことこそ安楽すなわち死である。日本の伝統的葬送の際、棺を四句の偈の「四本幡」で囲って送る由縁である。
〇合掌(掛軸-上下部分省略)
 合掌とは、両手をあわせて仏を拝む時の礼法である。インドの敬礼作法の一種が仏教に取り入れられた。南アジア一帯の仏教国では、挨拶の代わりに合掌して相手に礼を尽くす。仏と衆生が合体して成仏するという意味である。
手を合わせることは、左右相対したものが一つになり、信じることや調和を保つことの象徴でもある。
〇千曲川旅情の詩(巻子)
 本巻子は、万葉仮名で揮毫したものである。なお、現代文にすれば次のとおり。
 小諸なる小城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なすはこべは萌えず 若草もしくによしなし しろがねの衾の岡辺 日に溶けて淡雪流る  あたたかき光はあれど 野に満つる香も知らず 浅くのみ春は霞みて 麦の色はつかに青し 旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ  暮れ行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛 千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む    
            藤村落梅集から  邦山書
〇『摩訶般若波羅蜜多心経』(額)
 一般に最も親しまれている『般若心経』は正式には『摩訶般若波羅蜜多心経』といって、唐の玄奘三蔵法師(600~664)の訳とされている。『大般若経』から抄出されたと考えられているこの『般若心経』は、本文わずか262文字の中に仏教の教えのすべてが網羅されている。すなわち、『般若心経』に取り上げられている五蘊・六根・十二因縁・四諦・八正道などはすべて釈尊の教義の基本をなすもので、それを「空」として説くものである。したがって、『般若心経』を学ぶことは、仏教の基本をきちんと学ぶことになる。また、読誦経典としてだけでなく、写経の経典としても最も多く一般的に使われている。小生は三十代の頃から毎朝『般若心経』を読誦するのが日課となっていた。
僧侶になる前から毎朝たとえ数分ではあるが姿勢を正し読誦して人間として生きることに対する罪業消滅等を願ってきた。

◎依頼先(お問い合わせ)
慈悲の会(曹洞宗)(メール:yamadera24@jcom.zaq.ne.jp)



 
 
 
 









千曲川旅情の詩
摩訶般若波羅蜜多心経

4 坐禅指導

 日本全国の曹洞宗が認可した参禅道場、坐禅会を行っている寺院等は、多数存在する。
 関東一都三県(神奈川、千葉、埼玉)だけでも百か所以上あるが、ここでは大本山總持寺と大本山永平寺東京別院長谷寺の参禅会等に限定してその概要を紹介する。

◎大本山總持寺の坐禅会
 總持寺の参禅には、主に次の3コースがある。
〇月例参禅
 月例参禅は、毎月指定した日を自由参加の坐禅会として開催している。なお、自由参加の参禅は、予約なしで参加可能。先着100名で受付終了。初参加者は午後1時までに香積台受付に集合。午後1時受付開始で4時頃解散。服装(持参品)は、坐禅しやすい恰好(ジャージ等) 参加費は500円
〇暁天参禅
 暁天参禅は、毎月指定した日を自由参加の坐禅会として開催している。なお、自由参加の参禅は、予約なしで参加可能。先着100名で受付終了。開催時間等は、05:15~05:45受付時間厳守、6時止静、7時頃解散。服装(持参品)は、坐禅しやすい恰好(ジャージ等) 参加費は300円
〇一泊参禅『禅の一夜』
日程等
 新型コロナウイルス感染症流行のため2020.9月以降の日程は、未定。定員30名の予定。持参品は、洗面・入浴用具、タオル、白靴下、寝間着。参加費6000円(坐禅着レンタルの場合7000円)
スケジュール
第1日目(土)          
16:30 受付・着替え         
17:00 挨拶・坐禅指導       
17:30 止静(坐禅開始)         
18:10 抽解            
18:30 薬石(夕食)、飯台片付け  
19:30 夜話会                                  
20:00 明朝説明         
20:10 入浴             
21:00 開枕(就寝)         
第2日目(日)
03:40 振鈴(起床)
04:10 止静・抽解
     朝課(朝のお勤め)
06:30 小食(朝食)、飯台片付け
07:15 作務(掃除)
08:30 茶話会(祖録)
09:00 挨拶・解散
  *希望者は9時以降に坐禅一炷
  *終了後拝観(希望者のみ)
申し込み方法
 希望者は、住所・氏名・年齢・性別・電話番号・職業・参加希望日(リピート可)を
往復はがきに明記の上、下記住所まで送付のこと。
住所:〒230-8686 横浜市鶴見区鶴見2-1-1 大本山總持寺布教教化部参禅室
電話:045-581-6086  FAX:045-581-6348

坐禅修行中の著者(慈悲の会代表)
坐禅の姿勢
坐禅の姿勢(側面)

◎大本山永平寺東京別院長谷寺の坐禅会
 長谷寺では、毎週月曜日18:30~20:30の間次の3コースを設けている。参加予約等は必要なし。服装(持参品)は、坐禅しやすい恰好(ジャージ等) 参加費は100円
①初めての参加者は、『初心者講習』がある。
②2~5回目の参加者は、『2回目~5回目講習』がある。
③6回目以上の参加者は、即『参禅』
〇坐禅会の流れ(時間配分等)
・一炷目(18:30~19:10)
 (一炷とは、線香が燃え尽きるに要する約40分を意味する)
・経行(19:10~19:20)
 (経行「きんひん」とは、足の痛みをとるための歩く坐禅)
・抽解(19:20~19:30)
 (抽解とは、便所に行くなど次の坐禅に備える時間)
・二炷目(19:30~20:10)
 以上の流れは、6回目以上の参禅者の基本となる流れである。なお、『初心者講習』、
 『2回目~5回目講習』は、参加者の様子に合わせて独自の時間配分で行う。

大本山永平寺東京別院長谷寺の住所等は、次のとおり。
住所:〒106-0031 東京都港区西麻布2-21-34
電話:03-3400-5232
暁天坐禅(大本山永平寺東京別院)

5 法話録

◎慈悲の会 代表 山寺邦道の法話録(適宜追加更新)

〇死への準備について
 今回は、人の一生と死をめぐる問題について考えてみたい。
 釈尊は、生老病死の人生を苦であると観念し、苦からの離脱を目指して修行した。別の表現をするならば仏教とは「悟り」を追求する宗教である。そして追及の先に求めるものは涅槃寂静(安心)である。しかし、人生は苦しみと絶望の連続である。幸せは不幸と不幸の間のつかの間の一時ともいえる。そして最後には必ず人生の終焉を迎える。こういった無情な人生をどう考えて生きるべきか。人生を三昧の精神で有意義なものにするか、あるいはその反対に死ぬまでの暇つぶし(遊び)にするかは、本人次第である。人の数だけ人生観があるが、拙僧がこれまで生きてきてこれだけははっきり言える哲学がある。それは、「よく生きることは、よく死ぬことであり、よく死にたいと思うならよく生きることである」ということである。
 釈尊は、瞑想(坐禅)によって悟り(涅槃)を得た。それはまさに三昧の境地である。真の三昧の境地は我々俗人には到底到達できない境地であろうが、精進によってそれに近い精神状態には至ることができると考える。それは無我夢中、集中、熱中、没我等の状態に自己を持っていくことである。そこに生きがい、張り合いが生まれ自己の満足がある。
 しかし、それでも人生には限りがある。やがてすべての人間に訪れる死から逃れることはできない。そのために何時お迎えが来ても後悔がないように死の準備が必要である。したがって、何時いかなることが起ころうとも悔いのないように、今日只今を一生懸命大切にそして丁寧に生きること以外にない。

 人間はどうして生まれてきたのか、人が死んだらどうなるのか、どこへ行くのか、死後の世界をどうとらえるか、人生に意味があるのか等々についての死生観の究明の試みは、太古の昔からなされてきており、その結論は永遠の命題である。
 釈尊は、弟子たちに死後の世界のことを聞かれたとき「無記」といって決してお答えにならなかった。
 また、弘法大師空海は、自著『秘蔵宝鑰』の中で、次のように記している。
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」
 これは簡単にいうと、我々は死がなんであるかを知らないとともに、どこから来てどこへ行くかを知れ得ない、すなわち人間の思考の域を超えているという意味である。
 それでは、人生に意味があるかどうかについてはどうだろうか。
 トルストイは西洋哲学のあらゆる文献を彼の地位と財力で集められるだけ集めて、それを約十年の歳月をかけて調べ尽くした。「人生は無意味である」いかなる西洋哲学を持ってしても、この結論だけは改め得なかったと約十年の研究の末結論付けている。
 およそ人間に死がなければ宗教や哲学は存在しないであろう。昔から宗教や哲学が中心にする対象は生死の問題である。特に仏教においては『正法眼蔵』に象徴される如く生死をどのように超克するかが大問題とされている。
 また、私たちは死を見つめることによって、自分に与えられた時間が限られているという現実を再認識することができる。それは毎日をどう生きていったらいいかを改めて参究することであるから、死への準備はそのまま生への準備に外ならないといえる。

 最後に重ねていうが、この世は諸行無常である。この世に絶対かつ平等なものがたった一つある。それは人の死である。人は遅かれ早かれ必ず死ぬ。したがって、何時いかなることが起ころうとも悔いのないよう、今日只今を全身全霊を傾け一生懸命生きることが肝要である。どうか皆様のご精進を期待して結びとする。

   御仏の慈悲の光に照らされて 唯ひたすらに今ぞ生き抜く


〇死生観の参究について
 拙僧は、東京国際仏教塾の二十四期生である。
 入塾の動機は、古希を目前に控え、以前からの念願であった東京国際仏教塾に入塾し、仏教に関する基礎的な知識を体系的に習得することにあった。
 期待どおり教育内容及び担当教授陣共々、日本の仏教塾の中では最もレベルの高い教育機関であると思っている。すなわち仏教系大学の仏教学部等と比較して勝るとも劣らないものと確信している。また同期生の方々も、既に仏教に関しかなりの知識を持っておられる方が多かった。加えて仏教に関する自己のポテンシャルを更に高めたいという真摯な気持ちが強く、また人間的にも立派な方ばかりであった。したがって、極めて有意義な教育を受けることができたことを今更ながら感謝している。
 東京国際仏教塾卒業直後、突然妻を亡くし残余の人生を妻の供養に捧げるべく、出家得度の決意をした。そして幸いにも縁あって元曹洞宗管長板橋興宗禅師様を導師として出家得度することができた。現在は曹洞宗の僧籍に登録され、正式な僧侶となり福井県の御誕生寺を師寮寺として、千葉県で修行活動中である。
 さて、僧侶の職務は、端的にいって二つあると考える。その一つは、周知のとおり現代日本社会において、死者に引導を渡す葬儀を執り行うこと、もう一つは、むしろこの方が本来の大切な任務であるが、悩み苦しんでいる人々の心を救済することである。
 この任務を遂行するために厳しい修行に耐え、そのための研鑽と自己陶冶に励まなければならないわけである。悩める人々の心を救済すべき根本は何か。それは煎じ詰めれば人生の生老病死等の苦の解決である。そしてそれは、煩悩の世界に生きている人々の死生観の参究に他ならない。したがって、目下亡き妻に対する悲嘆からの超克を胸に、死生観の参究にのめり込んでいる。
 拙僧は、毎朝一時間の勤行をしているが、その時線香とローソクの火を見ながら時々人生の諸行無常が我が脳裏をよぎる。勤行が終わるころには線香もローソクも既に燃え尽きている。人生もしかりである。人の一生は一瞬にして終わる。
 人間は必ず死ぬという厳粛な事実は、我々人間にとって未来永劫変わることはない。この厳粛な事実に立って、それではどのように生きるのが最良なのか。
 拙僧は妻の死を契機として、死生観についての自著を出版した。したがって、死生観について関心のある方は閲覧されることをお勧めする。
(山寺邦道『死生観』パレード出版 定価1600円+税・2021年4月電子書籍化)


〇三昧について
 三昧には王三昧(静中三昧)と個三昧(動中三昧)があり、王三昧とは坐禅のことを指し、個三昧は個々の三昧の意味で坐禅以外の精神集中のことである。
 この王三昧の中でも最も優れた至極の王三昧を体験した人は、例えば菩提樹の下で大悟された仏祖釈尊であり、また中国(宋)の天童山如浄禅師の下で坐禅中に身心脱落を体験した道元禅師その人である。
 一言で坐禅と言っても坐禅の程度(内容)には、様々なレベルがある。雲水が禅宗の専門僧堂で修行する勤行、作務、托鉢等は、個三昧を目指すものである。この禅道場での血のにじむような行住坐臥の集積から王三昧による大輪の花(大悟)を咲かせる人物が出てくるのである。
 なお、僧界以外でも例えばそれぞれの専門分野で立派な業績を残した人物等は高度な個三昧の境地に到達しているのではないかと拙僧は考えている。
 そのような境地を体験している人々に共通して言えることは、携わっている対象に対して、嬉々とした生き甲斐のある人生を歩んでいる人が殆どである。そこには苦しみのうちにも集中の充実感や達成感と安心が伴っている。
 快楽にふけることが幸福であると思っている生活は、心揺さぶる感激は湧かず、倦怠の結果だけが残るものである。生き甲斐とは感動する心でありそれは個三昧の集積から生まれるものであると考察する。
 拙僧が法話の際に必ず申し上げることであるが、この世には絶対かつ平等なものがたった一つある。それは人は遅かれ早かれ必ず死ぬということである。したがって何時いかなることが起ころうとも悔いのないように今日只今を一生懸命集中して大切かつ丁寧に生きることが肝要である。どうか真剣に打ち込める生き甲斐を見つけて今日只今の生活が充実したものとなるよう皆様のご精進を期待して結びとする。
 

〇永寿康寧について
 今回は趣の異なる法話をする。
 厚生労働省が公開した最新の日本人の平均寿命は、男性81.09歳、女性87.26歳で過去最高を更新した。一方男性の健康寿命は72.14歳、女性は74.79歳である。
 すなわち、自立した生活を送れる期間(健康寿命)が、平均寿命より男性は約9年(8.95歳)、女性は約12年(12.47歳)も短い。
 このように私たちの平均寿命は、延び続け今では人生90歳に手が届こうとしているが、その一方で自立した生活を送れる期間(健康寿命)が、平均寿命より前述したとおり男性は約9年、女性は約12年も短い。これは、支援や介護を必要とするなど健康上の問題で日常生活に制限のある期間が平均で9年から12年もあるということである。
 人間の健康は、先天的要素と後天的要素に左右される。遺伝性の病気等先天的要素は運命であるので自分の努力では如何ともし難い面もあるが、後天的要素は本人の努力次第である程度延伸可能である。
 そのためには、バランスの良い食事、禁煙、適度な運動、質の良い睡眠、ストレスを貯めない生活態度等自らが健康管理に万全を尽くすことが肝要である。
 表題の永寿康寧とは、健康で幸せに長生きすることを意味する。
 どうか皆様のご精進を期待して止まない。


〇釈尊の基本的な教えについて
  釈尊の基本的な教えは、集約すると次のとおりである。
・縁起
  仏教の根幹をなす思想の一つで、世界の一切は、直接的にも間接的にも何らかの形で、それぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指す。縁起の語は、因縁生起の略で因は原因、縁は条件のことである。釈尊は縁起について「私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々が知り難く悟り難いものであるが、縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけである」という。この縁起は、仏教思想の中心で、釈尊の教えはこの縁起の法から展開されている。
・三法印
 法印とは、法の旗印という意味で仏教の根本教理を指し、仏教がよって起こったその存在理由並びに他の教説との違いを如実に物語っている。すなわち、諸行無常(諸々の現象は、常に移り変わって永遠に変わらないものは何一つないという原理)、諸法無我(諸行無常より導き出された印であり、すべてのものには固定した実体我というものがないという原理)、涅槃寂静(苦楽や生死を超えた一切の煩悩が断ち切られ、輪廻することのない心身の安楽と静けさを獲得した境涯のこと)がそれである。また、これに一切皆苦(我々の生存の一切は苦しみである)を加えて四法印ということもある。
・四諦(四聖諦)
 四諦とは、四つの真理ということで、苦諦、集諦、滅諦、道諦のことである。
苦諦とは、人間存在は苦以外の何ものでもないという真理であり、生老病死の四苦によって代表される。集諦は、そうした苦を集める原因のことである。苦には苦の原因があり、その原因が集諦で、その結果が苦諦である。その集諦とは、無明・煩悩のことである。一方滅諦は、その無明・煩悩が滅し、したがって、苦が滅した世界のことで、そこが涅槃といわれる世界である。それは決して虚無ではあり得ないはずで、真のやすらぎ、真の自由が実現した世界のはずである。苦しみの生存以外ではあり得ない人間も、その苦しみを滅することができるのである。道諦は、その滅諦を実現する方法、道のことである。道諦は滅諦の原因であり、滅諦は道諦の結果である。その道諦とは、要するに様々な修行のことになる。
・八正道
 前述のとおり、煩悩を整えて人間の心身を安定にする真理を実践する修行の道が道諦の教えで、これには八項目が説かれるので八正道といわれる。八正道は正見(正しい観察)から始まる。正見が縁になって正思惟(正しい思索)となり、それを他に伝える縁が正語(正しい言葉)である。正しく思索し、話すことにより、正業(正しい行為)になり、正業は正命(正しい生活)を築く縁になる。それらが実るには正精進(励み)が必要で、精進を縁として初めの正見(正しい観察)の目は内に向けられて心中に法(真理)を思い浮かべるに至る。常に心に思いを浮かべて忘れないことを正念という。正念により人の心は安定しそれが正定である。以上要するに、慧(正見・正思惟)、戒(正語・正業・正命・正精進)、定(正念・正定)の正しい実践ということになる。
・中道
 前述の八正道でいう正しいとは、仏教思想では縁起の道理にかなうという意味で、正道はまた中道とも呼ばれる。「中」も一方に偏らない均衡状態であるというだけでなく、縁起の道理に合致するものである。

 以上釈尊の基本的な教えについて述べてきたが、多数の関連文献を研究中に気が付いた件を付言して結びとする。まずその一点は、これまで釈尊の教えとして述べてきた内容は、釈尊自身が定型的にそのまま説いたものではなく、釈尊の死後、その多くの教説をまとめ上げていく中でほぼ一貫してその基底に流れる知見を後世の者が集約整理したものではないかとの印象を受けた。更にもう一点は、釈尊の教えの各項目内容は、それぞれ連鎖しており、また、八正道などという形でまとめられているものは、正に現在にも通じるこの世の道理そのものであると考察する。


〇日本仏教の現代的意義について
 日本仏教の現代的意義は、社会、政治、経済、文化、思想、倫理等広範多岐に渡るテーマであるが、ここでは仏教の基本的理念と現代社会の諸問題の関係及び葬式仏教の是非の二点に限定して法話する。なお、論述視点は、仏教理論としてだけでなく、修行実践の観点から社会とどうかかわっていくか考察してみたい。
・仏教と現代社会の諸
問題との関係
 日本の仏教には数多くの様々な宗派が存在するが、その源流は釈尊の教理である。したがって、まず釈尊の基本的な教えの内容に触れその理念が現代の諸問題の解決にどのようにかかわっているか言及することとする。縁起の理法は、三法印の諸行無常に続いて諸法無我の「我」が否定される。現代の社会問題の多くがこのエゴ(利己主義)が元凶になっているが、その解決の糸口はこの縁起の理法等の認識にあるのではなかろうか。また、縁起の理法の現れ、すなわち真理を人生に則して総体的に表現したものに四聖諦がある。苦諦、集諦、滅諦、道諦がそれである。苦諦とは、生存するに伴う生老病死の四苦等のことであり、集諦とはその苦しみがよってきたる原因はそもそも何か、それは煩悩に他ならない。次に煩悩が滅んでなくなった状態として滅諦をあげ、そこへ到る道を道諦として八正道がある。すなわち人生は苦しみそのもの、その原因は、貪、瞋、痴を三毒とする煩悩だから苦しみから逃れるために煩悩を滅ぼさなければならない。そのためには八正道を実践しなければならないということである。釈尊は更に臨終の際の最後の教えである仏遺教経の中で少欲知足の精神を教えている。これまで自然と人間は、互いに対立する二元関係におかれ、自然は人間によって征服されるべきものとされてきた。今その行き着いた姿として自然破壊や核開発等のありようが問題視されるようになっている。それらは地球の存在そのものさえ危うくするようになってしまったからである。その結果、西洋思想から東洋思想に乗り換える必要性も提言され始めている。つまり絶対存在とそうではないもの、分かりやすく例えれば支配するものとされるものという二元的な関係を柱とする思想から仏教の「一切衆生悉有仏性」等に象徴される一元論に乗り換えなければならないということである。これこそが仏教の理念そのものである。地球の本来的機能である循環というサイクルの中で人間存在のありようを考えなければならない。これ以上の機能破壊を止め、次に破壊された機能を回復し、その保全に努めること、そうしなければ共存共生はあり得ず、したがって人類の存在もあり得なくなる。全人類がこの仏教の精神すなわち縁起の理法等にかなった生き方、四諦の理解と八正道の実践を常に忘れずに行動することが肝要である。
・葬式仏教の是非
 日本仏教が葬式仏教に向かう大きな転機は、江戸幕府が定めた檀家制度が大きく影響しているが、この葬式仏教について言及する。葬式仏教とは、本来の仏教の在り方から大きく隔たった、葬式の際にしか必要とされない現在の日本の形骸化した仏教の姿を揶揄して表現したものである。すなわち葬式仏教といわれるのは僧侶たちが葬式や年忌の法事、墓地の管理等にかまけて、現在を悩みながら生きている人々の救済願望に応える努力をしないように見えることに対する批判である。しかし、翻って考えてみると、例えば葬式をきちんと僧侶が執り行ってくれるというのは、一人の人間にとって誕生と並ぶ死という一大画期的行事を荘重かつ厳粛に通過したいという願いに応えていることも間違えない。僧侶が行うのが葬式と法事だけというのは問題があるにせよ現代の仏教者は、こうした葬式仏教の必要性も認識したうえで、人生の終焉としての葬式仏教を丁重に行うことは、現在の日本仏教が果たすべき重要な任務であり、これはこれでまた有意義なことであると思量する。

 以上仏教と現代社会の諸問題との関り及び葬式仏教の是非について言及してきたが、最後に日本仏教の今日的関連に触れて結びとしたい。
 我々日本人にとって、仏教は現に生きている宗教であり、また、おそらくは今でも我々のものの見方、考え方に大きな影響力を及ぼしている。つまり、約千五百年の昔から日本に伝えられ始めた仏教が、極めて進歩した文明社会を実現しつつある現代においても日本の社会を構成する不可分の要素となっており、同時に、この社会を支える多くの人々の精神生活に深くかかわっているものと考察する。


〇曹洞宗の宗史と宗義について
・曹洞宗の宗史
 日本の曹洞宗は、鎌倉時代に出現した道元禅師によって中国から伝来されたものであるが、以下その歴史の概要について、述べることとする。
 道元禅師が二十四歳で中国へ留学したのは南宋の時代である。中国の諸山を遍歴した後、二十六歳の時たまたま天童山景徳寺の住職となっていた中国曹洞宗の流れをくむ如浄禅師(中国曹洞宗の祖洞山良介から数えて十三代目の祖師)に相見し、釈尊以来の正伝の仏法を相承することができた。二十八歳で帰国した道元禅師は、直ちに普勧坐禅儀一巻を撰述して正伝の仏法を宣揚したが、当時は比叡山を中心とした旧仏教側の圧力もあり、正伝を宣揚するためには、真の求道者を養成することが急務であると考えられ、宇治の興聖寺、更には越前の永平寺を通じて人材の養成に専念された。この道元禅師の精神は、その後を継いだ永平寺二代の孤雲懐壌禅師、永平寺三代で加賀の大乗寺を開かれた徹通義介禅師を経て、その弟子瑩山禅師に受け継がれた(瑩山禅師は、大衆の教化、祈祷の採用、偶像崇拝を認め、宗門の名称を禅宗・曹洞宗と呼ぶなど道元の主張を緩め、大衆に馴染み易くした。したがって、曹洞宗の今日の繁栄は瑩山禅師の解釈改宗によるところ大であるといわれている)。そして瑩山禅師のもとには、後に永光寺を継いだ明峰素哲禅師、總持寺を継いだ峨山禅師が出られ、その門下にも多くの優れた人材が輩出し、日本各地に曹洞禅が広まっていった次第である。特に今一つ中国禅宗の流れをくむ臨済宗が、幕府や貴族階級など、時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依を受け、専ら地方へと教線を伸ばしていった。すなわち、鎌倉末期から室町時代にかけては、臨済宗が鎌倉や京都に最高の寺格を有する五ケ寺を定めて順位をつけた五山十刹の制をしき、五山文学を中心とする禅宗文化を大いに発展させたが、曹洞宗はこうした中央の政治権力との結びつきを避け、地方の民衆の中にとけこんで、民衆の素朴な悩みに応え、地道な布教活動を続けていった。しかし、長い歴史の間には宗門にもいろいろな乱れや変化が起こっている。江戸時代になると、徳川幕府による寺檀制度の確立によって、寺院の組織化と統制が加えられる一方、宗学の研究を志す月舟宗胡、卍山道白、面山瑞方等の優れた人材が出て、嗣法の乱れを正して道元禅師の示された面授嗣法の精神に還るべきことを主張した宗統復古の運動や、正法眼蔵を始めとする宗典の研究、校訂、出版などが盛んに行われた。明治維新となり、神道を中心に置こうとする新政府は、神仏を分離することで仏教を廃止しようとする廃仏毀釈を断行し、仏教界に大きな打撃を与えた。しかし仏教界の各宗もよくこの難局に耐え、曹洞宗には大内青巒が出て『修証義』の原型を編纂し、その後、總持寺の畔上楳仙禅師、永平寺の滝谷琢宗禅師の校訂を経て宗門布教の標準として交付され、在家化導の上に大きな役割を果たした(特に『修証義』は、今、『般若心経』とともに曹洞宗の檀信徒に最も親しまれている宗典である)。こうして曹洞宗々門は、現在全国に約一万五千寺の寺院と、約八百万の檀信徒を擁する大教団に発展し、今日に至っている。
・曹洞宗の宗義
   宗義とは、広辞苑によれば宗門の根本となる教義とある。すなわち教義とは宗教の信仰内容が真理として公認され、信仰上の教えとして言い現わされた教理ということになる。したがって、曹洞宗宗憲第三条(宗旨)及び第五条(教義)等がこれに相当すると思量する。以下その宗義(宗旨・教義等)の条文内容について説明を加えることとする。曹洞宗宗憲第三条は、「本宗は、仏祖単伝の正法に従い、只管打坐、即心是仏を承当することを宗旨とする」とある。仏と人間は別物ではない。損得や欲望など煩悩が働きだす以前の心は静寂で、その世界は万人に共通している。したがって、師と弟子の悟りは異なるものではなく、坐禅で静寂が信じられ、それになりきったら、師と弟子も同じ世界にいることになる。師から弟子へ同じ静寂を伝えるから単伝というのである。その坐禅の世界に心底落ち着いていることを只管打坐という。その時、煩悩に染まった汚れた心をさしはさむ隙がないことを即心是仏という。静寂無心が直ちに仏の涅槃の世界なのである。それを最初に語ったのが釈尊であり、日本で正法眼蔵(曹洞宗の最も重要な根本経典であると同時に日本の生んだ最高の仏教思想書)に著し、教示したのが道元禅師である。
 次に曹洞宗宗憲第五条には、「本宗は、修証義の四大綱領に則り、禅戒一如、修証不二の妙諦を実践することを教義の大綱とする」とある。修証義には信仰生活の原則が、四大綱領(懴悔滅罪・受戒入位・発願利生・行持報恩)という言葉でまとめられている。この四大綱領を要約して禅戒一如と修証不二という。禅戒一如というのは、禅と戒は一つだということである。一般に、戒は、戒律と同義語として扱われ、悪いことをしないで善いことをする、ないし道徳的、倫理的な禁止条項をいう。個人生活でも、人格を向上し、平和に暮らすには、道徳や倫理が不可欠な要件になることはいうまでもない。つまり、誰でも本来的に持っている真心、偏らない、とらわれない、そして、すべてのものを慈しみ愛する心のこと、仏教的に表現すれば、仏心、仏性のことである。この真心から考え、発言し、行動するのでなければ、真の道徳・倫理とはならないのである。このような、いわば大宇宙的な広大な視野に立って、すべてのものの命、人間の真心を自覚することが、実は禅(只管打坐・即心是仏)に他ならないのであり、この自覚の上に立つ生活が戒である。敢えていうならば、禅は命、真心の静的な面であり、戒はその動的な面であるから禅は戒に展開し、戒は禅に帰一するので、その意味で、禅と戒は、二つであって実は一つなのである。そこで戒を特に仏戒と呼んでいる。仏戒の生活では常識的な善と悪など、道徳・倫理を包み込んでいるから善と悪の対立はないし、善と悪に束縛されない。たとえ悪とみなされることも善に転換され、蘇生するのである。また、悪いことをしようにもできないという高い次元に立つわけである。受戒入位にはこのような 意義が潜んでいる。一方、修証不二とは、修行と証悟は一つだということである。一般的には修行は証悟に至るまでの過程にすぎないと考えられている。しかしながら修行するその過程の中にこそ証悟があるのではないだろうか。証悟の中にこそ修行がある。強いていえば、証悟としての修行、修行としての証悟である。修行も証悟もそれは元はといえば、大宇宙のありよう、大宇宙と直結している。今、ここでの私たちの命の絶対的事実を表現したのに過ぎない。現実はそのまま理想であり、理想はそのまま現実である。今、ここでかけがえのない命を、その命のありのままに生きていくことを自覚した生き方を、修行といい、証悟という。そういう修行・証悟を修証不二という。『修証義』で具体的に示すと、第二章懴悔滅罪、第三章受戒入位は証であり、第四章発願利生、第五章行持報恩は修である。証といっても、先に述べた、命の絶対的な自覚に立つから、特に本証とし、修といっても、この本証のおのずからの活動であるから、特に妙修として、本性妙修という。








(今後の法話予定は、次のとおり)
〇『正法眼蔵』に見る死生観
〇哲学と死生観
〇西行法師の死生観
〇吉田兼好の『徒然草』に見る死生観
〇貝原益軒の著書に見る死生観
〇正岡子規の著書に見る死生観
〇藤村操をめぐる死生観
〇三島由紀夫の死生観
〇自死者(自殺者)の死生観
〇死刑囚の心境
〇戦国武将の死生観
〇軍人の死生観
〇尊厳死・安楽死
〇病名告知
〇脳死・臓器移植
〇死について
〇臨死体験
〇人生の意味と目的
〇生きがい
〇生きる限界等
〇終活
〇戒名
〇葬儀等
〇仏教と禅
〇禅とは何か
〇ヨーガ、瞑想、坐禅、マインドフルネスの違いと共通点
〇禅と三昧
〇禅宗の歴史(法嗣)
〇坐禅
〇禅宗(曹洞宗)のお経
〇雲水の禅的生活
〇禅と日本文化
〇禅語
〇禅の古典解説
〇坐禅のできる寺院案内
以上45法話




 












 
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